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       過敏性腸症候群について



過敏性腸症候群は完治する

近年、過敏性腸症候群が増加する傾向にあります。
過敏性腸症候群とは、ちょっとしたきっかけで下痢・便秘・あるいは下痢と便秘が交互に現れるといった便通異常が長く続き、腹痛をはじめとする種々の腹部症状を訴える事が多い病気です。症状別にみると男性には下痢型が、女性には便秘型が多いという傾向にあります。原因は、ストレス(情緒的・身体的)や食生活にあるといわれています。

下痢型 腹痛を伴い、朝食後何回か排便をし、最後は下痢になる
便秘型 腹痛を伴う便秘。排便困難感・残便感が強く、少量の便しか出ない。
ウサギのフンや鉛筆の太さの便。粘液が付くこともある
交互型 下痢と便秘という、全く逆の症状がくり返す。
原因不明で自律神経の乱れにより起こります。

恐らく既に1000人は超えたであろう、過敏性腸症候群(IBS)の方々をお世話して、色々な事を僕も学んだ。
過敏性腸症候群の定義は、どの医学書を見ても同じ事が書いてあり、下痢型・便秘型・交互型等、便宜的に区分されている。僕は、多くの方と接して(店頭で直接・電話、メール、手紙で間接的に)ほとんどの方が、便宜的な区分からはみ出した悩みで苦しんでいる事を知った。原則的な3タイプにとどまっている方を治すのは、そんなに難しくはない。以下に挙げるような訴えが複雑に絡み合っていて、その1つ1つを解決出来る薬草を見つけてこそ、完治への道が開ける事を知った。原則的な薬で解決出来るような人は少ない。そもそも、その程度の方は僕の所へはやって来ないだろう。僕の所へ来て下さる方は、色々な病院や薬局、果ては、いかがわしい健康食品にまで手を伸ばして、蟻地獄でもがいている方ばかりだ。既に治ってしまい、僕との縁の切れた方や、現在、僕と懸命に共同作業をして下さっている方はお判りの通り、軽症の方は、漢方エキス剤(粉剤)、重症の方は、煎じ薬でお世話している。過敏性腸症候群で悩んでいるご本人と僕との真剣な共同作業で克服出来る症状だと信じている。
 
 <今まで訴えられた症状>
  • 無意識にガスが漏れている
  • 腹鳴が頻繁にして恥ずかしい。肛門でも鳴る
  • 対人恐怖症になって、外出が出来ない
  • 便秘になって3〜4日出ない
  • お腹が張って苦しい
  • 午前中に何回も(4〜5回)トイレに行く。外出しようとすると便が少し出る
  • 座っているとガスがボコボコ発生してくる
  • 便意があったら、すぐ出そうになるので電車やバスに乗れない  高速道路もトイレが無いから走れない
  • えんぴつみたいな細い便しか出ない
  • 肛門に熱感があり不快
  • 残便感があり、何回もトイレに通ってしまう
  • ガスが臭くて人に迷惑をかける
  • ゲップが何回も出て苦しい
  • 午後からお腹がボコボコ動く。夜は悲劇
  • 下痢・便秘を繰り返す
  • 仕事や授業中に後ろの人が気になり、その結果腹痛で1時間もたない
  • 食事の度に便意をもよおし、下痢をする
  • 参観日などのイベントで、必ず下痢をする
  • 狭い部屋や他人とのドライブが苦痛で仕方ない

ご両親様へ

 長い間、お嬢様の不調に心を傷めておられると思います。過敏性腸症候群、恐らく耳にしたことがないような症状名に驚かれたのではないでしょうか。又戸惑ってしまったでしょう。嘗てはその様な病名もなかったし、その様な病気になる環境もなかったのだと思います。生産性の、それは仕事だけでなく、教育でも遊びでもあらゆる領域で要求されていますが、過大な要求についていけない人達が、身を削って、心を削ってNOを訴えている現象だと思っています。

  人は身体のどこかを犠牲にして、命を守るように出来ています。多くは心臓、胃、腸でしょうか。そこにストレスを集中させて、人間全体を守るという、「良くできた生命体」だと思っています。学者ではないからそれが合っているのかどうかは分かりませんが、長い間多くの人と接してきてそんな感想を持っています。

 僕は青春の落とし穴という言葉を自分で作って、過敏性腸症候群について理解しお世話しています。思春期にさしかかり、自我に目覚めた頃、周りの人の視線がとても気になり始めます。それは自分を高めるために必要なことでしょうが、それが度を超すと、ナルシシズムになってしまい、その成長の過程自身が、凶器となって自分に突き刺さってくるのです。本来は自分を高めてくれるべきものが、自分の行動を臆病にしてしまうのです。人の前で失敗は出来ない、好感度をアップしなければならない、いい人を演じなければならない、多くの友人に囲まれなければならない、知性も経済力も評価されなければならない、そんな諸々の過大な評価を勝手に背負ってしまうのですが、そんなものが青春期に手にはいるはずがありません。いきおい、そのギャップに苦しみ、人の前に出ることが、そして自然体でいることが困難になってくるのです。

 過敏性腸症候群の方の一般的な苦しみは○無意識にガスが漏れている ○腹鳴が頻繁にして恥ずかしい。肛門でも鳴る ○対人恐怖症になって、外出が出来ない ○便秘になって34日出ない ○お腹が張って苦しい ○午前中に何回も(45回)トイレに行く。外出しようとすると便が少し出る ○座っているとガスがボコボコ発生してくる ○便意があったら、すぐ出 そうになるので電車やバスに乗れない 高速道路もトイレが無いから走れない ○えんぴつみたいな細い便しか出ない ○肛門に熱感があり不快 ○残便感があり、何回もトイレに通ってしまう ○ガスが臭くて人に迷惑をかける ○ゲップが何回も出て苦しい ○午後からお腹がボコボコ動く。夜は悲劇 ○下痢・便秘を繰り返す ○仕事や授業中に後ろの人が気になり、その結果腹痛で1時間もたない ○食事の度に便意をもよおし、下痢をする ○参観日などのイベントで、必ず下痢をする ○狭い部屋や他人とのドライブが苦痛で仕方ない・・・などです。一般の方にとってはまか不思議な訴えでしょう。しかし当事者達は、これらの症状を抱えていて日常の多くの制限を受けています。

 今回お嬢様に依頼された症状もこの中のかなりの部分と重なります。お嬢様は30年近くこの症状と闘っておられたのでしょう。悲しいかな命の危険は全くないという理由と治療が困難という理由で医療機関も対処の仕方を確立できていません。いきおい僕のような田舎の薬局にまで相談してくださるのでしょうが、僕がお世話するのは心と身体の両面です。そのどちらが欠けてもこの症状はなくなりません。人には一つや二つ決して越えることが出来ない壁をもっているものです。僕にもそれはありましたし今でも新たなそれをもっています。僕の漢方薬が多くの人に服用されている最大の理由は、内臓の動きを整える処方と、その「決して越えることが出来ない壁を越えやすくする」処方を作れるからだと思います。幸か不幸か、症状は違いますが嘗て同じ青春の落とし穴に落ちて30年以上苦しんだ経験が生きているのだと思います。

 過敏性腸症候群自体を理解することは一般の方には難しいかもしれません。ただ一つお願いできることがあるとすると、お嬢様が苦しんでいることだけは理解してあげてくださいと言うことです。過敏性腸症候群になった方の多くは繊細すぎるだけです。僕はそれは欠点だとは思いません。その繊細さが生かされる環境や職業に出会ったときには素晴らしい能力を発揮されると思っているのです。そうした環境を見つけるのもこのトラブルから脱出出来る近道です。忌まわしい不快症状からお嬢様が早く脱出されることを祈っています。

 

               栄町ヤマト薬局 大和彰夫

 


 ある時、2人の薬剤師が相次いで辞めた。1人は交通事故。もう1人は本人の事情。それまでは僕が漢方薬を受け持ち、妻がOTCを受け持ち、2人の薬剤師が病院と施設(特別養護老人ホーム)の調剤を受け持っていた。だから僕は3人分の仕事をこなさなければならなくなった。朝は5時ごろ起きて仕事にかかり、夜はシャッターを下ろしてから12時頃まで働いた。2ヶ月くらいだと思う。特別養護老人ホームの110人分の薬を決まって作らなければならない。それも飲みやすいように錠剤を粉砕したり、一つの袋に数種類の薬を混ぜたりと簡単な作業ではなく、新たに導入した最新の調剤機械を駆使してもなお1日数時間はその為だけにとられた。8時から20時までは、いわゆる普通の業務(OTC販売、漢方相談、処方箋調剤)をこなした。不思議なことに疲れは全く感じなかった。四六時中高揚して充実感もあった。よく働いて、毎日ご褒美にビールを飲み、窓を開けて眠った。低体温の僕が、まるでサイボークにでもなったみたいだった。  

そうしているうちに娘が帰ってきてくれた。調剤専門薬局に勤めていた娘は驚くほど調剤に関しては技術を身につけていた。僕の仕事の半分以上を引き受けてくれた。やっと本来の僕の仕事量に戻れた。それでも止めなかった急ごしらえの習慣があった。それは気持ちが高揚したままよく食べよく飲み窓を開けっ放して寝ることだった。10月の半ばまで窓を開けて寝ていた。あまりの寒さで震えながら毎晩目を覚ましていた。寝る前の高揚感だけで開放して寝ていたのだが、本来僕はその様な熱量は身体には備えていない。
 
ある朝目覚めると、抜けるように体がだるかった。仕事をしなければと思ったが、起きあがる気力も出てこなかった。体温を測ると僕にとってはまずまずの熱が出ていた。風邪を引いてしまったんだと思い薬を飲んだ。本来なら半日で解決できる。今までの経験で言うと半日あれば風邪を追い出せた。ところが昼が来ても夜が来ても、最高級の薬を飲んでいるはずなのに症状が全く軽減しない。僕にとっての最大のストレスは仕事を休むことだから、少し焦った。翌日も翌々日も同じように身体が重く、起きあがる気力も起こらなかった。おまけに食欲が全くなく、鼻の先に食事を運んでもらっても、それこそ一口も食べれなかった。体調不良でご飯が食べれないという経験は初めてだった。熱は平熱より1度高いくらいで推移した。微熱、食欲減退、倦怠感、この3重苦で仕事が出来ない。どうしても僕が応対しなければならない人の時だけ2階から降りた。1週間位するとそれでも少しずつ食べれるようになったが、体のだるさと微熱は改善しなかった。全く家から1歩も出ない日々が続き、心は鬱々としていた。しょちゅう体温計で測るが、漢方薬が効いている数時間だけ機械的に熱は下がったが、薬が血液中から消えると又元の木阿弥だった。

息子は最初は何かの感染症だろうと言って興味を示さなかったが、さすがに1ヶ月も微熱が続くとガンかもしれないから、調べにおいでと言ってきた。実は僕もその事ばかりを最後の方は考えていたのだ。倦怠感を押して仕事は続けたが、頭の中にいつもその言葉が浮かぶようになった。毎晩激しい動悸で必ず目が覚めるようになった。激しく汗をかいていた。朝が来るのが待ちどおしかった。体より心の方がやられ始めていた。  息子が勤めているところにいきたくても自分で車を運転する体力はなかった。帰ってきたばかりの娘と妻に全てを任せるのは心許なかった。タクシーで行っても途中で気分が悪くなりぶっ倒れるのではないかと心配した。
そんなときある女性が連れて行ってあげると申し出てくれた。もう20年来漢方薬を出し続けている親しい人で、その人に頼むのは抵抗無かった。結局はある空白の時間を狙って妻が連れて行ってくれたのだが、人の親切がとても嬉しかった。何故か血液検査の数値も良くて、腫瘍マーカーもいっさい問題ないことが分かった。息子に何かクスリを出してと言ったら、こんな時こそ漢方薬と言ってクスリはくれなかった。食事がとれている人に点滴も必要ないと言った。意外と半病人には武器がないものだと驚いたが、病気が隠れていないことを判断してくれて、この日を境に一気に解放へと向かったのだが、問題は残されていた。
 病気でないのなら積極的に外出してやろうと考えた。1ヶ月近く太陽に当たっていないし、歩いてもいない、まして車の運転もしていない。外を歩けば、くらくらとして倒れそうになった。それでも少しずつ時間と距離を伸ばして歩くようにした。漢方の研究会があったので出席してみた。車も運転して岡山まで行った。2時間、好きなことだから意外と体はもって有意義に勉強出来た。喜んで車を運転して帰った。会場から、10分くらい走ったとき、信号で止まった。岡山市では一番大きな交差点だろうが、赤信号を2回から3回も我慢すれば必ず通過できる。いつものように待っていると急に息苦しくなってきた。それと同時にいいようもない焦燥感、何か込み上げてきて叫びたくなるような気持ちに襲われた。冷や汗が出てきて失神しそうになる。何の予兆もなく突然に始まった発作にあわてた。自分でパニックをおこしたのだとすぐに気が付いた。大声で歌い、口をすぼめて息を吐き、窓ガラスを開けた。いつ失神するかと冷や冷やだった。念のためアクセルから足をはなしておいた。やっとの思いで信号を脱出した。するとすぐに高架橋の上で又止まった。一瞬収まっていた症状がすぐに復活した。これが例のパニックなんだと、僕もこんな症状を起こすんだと情けなかったが、失神しないことだけを願って牛歩の歩みの車列を恨んだ。恐らく人生で最大の危機だと、パニックを起こしながらも考えた。やっと危機を脱して再び帰路に就いた。田舎に近づくにしたがって信号も気にならなかったが、バイパスの長い橋にさしかかったところで又同じ症状が出た。たた数十秒も走ればわたれるので、先ほどの症状ほど激しくはなかった。  体力が少しずつ回復していたのでこの出来事はショックだった。日曜日、試みに町内を運転したが、信号で止まると動悸がし息切れがした。完全にトラウマとして残っていた。

嘗て同じような患者さんを治したことがある。若い彼はダンプの運転手だったが、事故を起こした高架橋の下を通ると必ずえらくなり気を失いそうになると言っていた。全く彼と同じ状態だ。こんなにしんどいのかと、本当に彼の苦しみを理解してクスリを渡していたのかと、罪の意識すら感じた。ただ、彼も、その他の同じような人も治しているから、僕も必ず克服できるものだという予感はあった。この果てしない予期不安を克服しないと日常生活がかなりの制限を受けてしまう。この克服は緊急の課題だった。パニックと予期不安、病名を並べてもしょうがない。要は極度の体力の消耗から始まった一連の神経の衰弱を治せばいいのだ。本来僕がもっている繊細な、臆病な心が覗いただけなのだ。体力を回復し、気を強くする煎じ薬を飲めば絶対克服できると思った。現代医学なら安定剤か抗ウツ薬が定石だろうが、絶対それには手をつけまいと思った。いったん手をつけるとなんだか止めれないような気がするから。
 消化器系を強くする薬とパニックを抑える薬を両方早速飲み始めた。煎じ薬と粉薬で作ったが、美味しいと思った。真っ黒でとても美味しそうには見えないが、とても美味しかった。それの効果は夜の動悸と寝汗にすぐ現れた。飲んだ日から効果を感じて恐らく数日でそれは治ってしまったと記憶している。夜がまず怖くなくなった。日曜日を待って実験を行った。心配した妻が、いつも岡山に行くのを変更して玉野の教会まで付いてきてくれた。往復2時間、ミサが1時間。運転は全部自分がした。橋も信号も全く問題はなかった。ただ、心配な心は顔を持ち上げてくる。信号の度に、橋の度に心配にはなったけれど、症状は起こらなかった。翌週は、1人で同じ行動をとってみた。同じように懸念はその都度あったが、結局何の不都合も起こらなかった。次の週も次の週も行動範囲を拡げながら挑戦し、最終的には漢方薬を飲むのも忘れていた。ほぼ1ヶ月くらい飲んだだろうか。
 
おかげで今は何の問題もなく、どんな渋滞でも問題ない。不運な体験でつかんだ処方だが、その後多くの人に役に立っている。予期不安、パニックなどはそのものの目的なのだから効くのは当然なのだが、一番幸運だったのは、過敏性腸症候群のガス漏れタイプの人がかなりの確率で改善していることだ。
あれ以来、「繊細病」「考えすぎ病」にはこの処方を使っている。僕にはそれらで苦しんでいる人達の性格や心のありよう、果ては生き方まで手に取るように分かる。僕が僕の性格を好きなように、その人達がとても好きだ。その繊細さを失わず、とても大切な個性として持ち続けて欲しいと思う。その上で、気を強くもてるような煎じ薬で物事に動じないようにしてあげると「ガス漏れ」から解放されることに気が付いた。現代医学の逆だ。思考力を抑えてなんとか日常生活を送れるようにするのではなく、強い気持ちを持ってもらえるようにするのだ。そして、そこに笑いの一つでもあれば十分だ。治らないはずがない。だって、人を傷つけることもなく懸命に生きているんだもの。祝福されないはずがない。勇敢で攻撃的がいいはずがない。僕はそんな人間でなかったことを喜んでいる。それだからこそ今会えた人達がいることに感謝している。小心でも臆病でもない、僕らは繊細なだけなんだ。それ以上何を望む。繊細だからこそ得たものがいっぱいあるはずだ。それを大切にすれば十分だ。繊細だから失ったものはなにだ。そんなもの必ず取りかえせれる。だって、自分の心の中にあるのだから手は延ばせば届く。  何故こんな体験をよりによってさせられるのかと当時思ったが、これで若者の何人かが救われるなら当時のつらさは全部肯定できる。みんな似たり寄ったりと見えないだろうか。特別な人なんてそんなにいないのだ。良しにつけ悪しきにつけ。この年になってやっとそれが分かってきた。それが分かれば生きるってことは実は結構楽なものなのだ。早く気が付くことを祈っている。


過敏性腸症候群のあなたに

僕の青春は、その一瞬で変わった。高校2年生の新学期、古文の時間、教師に指名されて教科書を読み始めた時だった。訳もなく声が震えて止まらないのだ。恐らく手も震えていたに違いない。果たして、何行を読んだのか分からないが、その1〜2分は、僕にはたどり着けない無限の彼方のように思えた。全くの1人相撲なのだ。青春前期の自意識過剰の典型だ。(ショ−ウインドウに映る自分の姿にうっとりするのと同次元のこと)巡り合わせの悪いことに、陰険な教師にそのことを指摘され、以来僕は、教室で本が読めなくなり、英語や国語はもとより、社会ですら、自分が当たると予想が付けば、授業を休んだ。

 人前で本を読む事は、大学へ行っても出来なかった。僕は元々は田舎の優等生で、弁論大会なども平気だった。むしろ目立ちたがり屋だった。それが、あの一瞬がトラウマになり、逃げて逃げて逃げぬく人生が始まった。
 このまま僕は、一生逃げ回って生きるのか。いや、そんな人生は耐えられない・・・そんな日々の葛藤に終止符を付けようと僕はあることを決心した。それは人前で唄を歌ってみるという事だった。
当時、時代はベトナム戦争の頃で、学生はデモによく出掛けた。そして、色々な所で反戦フォーク集会が催されていた。僕にとっては一生を変えてやろうという程の決断だ。ギターも習いたてなのに、詩を書き曲を付けて応募した。コンサ−ト当日の昼食は、全く喉を通らなかった。そんな事も初めての経験だった。緊張すると全ての器官が収縮する。今なら一歩退いて分析出来る。僕は極度の緊張の中で舞台に立った。心臓は破れる位激しく打ち、足は震えた。人の前で本も読めない人間が唄を歌うのだ。それも、ギター1本で・・・。
ところが、とんでもない事が起こった。初めて作ったオリジナル曲を、「21年生きてきて、これが・・・」と、歌い始めた瞬間、完全に僕は自分の作品の中に入り込んだのだ。もう周りには何も存在しなかった。完全な静寂の中に僕の声がギタ−の伴奏にのって響いた。僕は、譜面を見ることもなくほとんど目をつむったまま歌い終えた。そして数曲を無事歌い切り喝采の内に舞台を降りた。多分、5〜600人の聴衆を前にしての出来事だったと思う。

 とてつもない賭に僕は勝った。以来、5年間僕は、学生歌手として、その街では少し名が売れた。今でも僕は、人前で本を読んだり、歌ったり、話したりするのが苦手だ。でも、どれも避けては通らない。講演も頼まれれば、断らない。
 その時以来僕を支えている価値観は、「みんな一緒」って単純なものだ。人前で何かしようとすれば、緊張するのが当たり前。上がらない方がおかしいので、そんな人を基準にするより、上がる普通の人を基準に考える事にした。人に少し勝とうが、人より少し劣ろうが、そんな事にこだわる程、人生は長く無いことが分かった。僕は、僕である事を大切にし、不格好に生きていけばいいのではないかと思っている。背伸びしない人生が、いかに生き易いか身をもって体験した。
 今ならハッキリ断言出来る。この世に命を懸けて守るようなものは、自分の子供以外にはない。あなたが守ろうとしている事は、我が子の命より価値がありますか?ないのなら、そんなに力む事はない。人生なんて、所詮ダラダラと続いている冗談みたいなものなのだから。

  僕は、人口8000人足らずの小さな町で薬局をやっている。訳あって、この町に帰ってきたけれど、大学で学んだことはいっさい役に立たず、悶々と暮らしていた。だけど、白衣を着て応対するから、お客さんは僕に期待をする。僕はそれに答えてあげる知識がない。そのうち、だんだん息苦しくなって喉にいつも何かが引っかかっているような症状が出た。半年たっても解決せずに、病院に駆け込んだけれど、風邪薬をくれただけだった。
その後恐らく1年くらい経ってからだと思うけれど、あるメ−カ−の勉強会で講師の方に、僕の症状を尋ねたら、ある漢方薬を教えてくれた。家に帰って、漢方薬を初めて仕入れて自分で飲んでみると、なんと、1年半ぶりに、喉のつまりが取れたのだ。その時の衝撃で僕は漢方を勉強し始めた。以来、この田舎の方の忍耐強い愛情で、僕は漢方の腕を鍛えられた。顔見知りの人々には嘘は付けない。薬を出しては、結果を尋ねる。その毎日の繰り返しでやっと少しだけ漢方薬が使えるようになった。田舎の薬局は、効かない薬を出すわけにはいかないのだ。しばしば顔を合わせるのだからそんなことをしたら謝りどうしだ。治癒率7割、それが僕の目標だ。10人に薬を作れば、せめて7人に喜んでもらえる、そうしないと精神がもたないのだ。

縁あって、インタ−ネットで薬を作らせていただく方々にも、ぜひその7割の方に入って欲しい。その為には、僕に一杯情報を下さい。そうすれば症状にあった薬が作れる。そして一番大切なことは、僕より先に諦めないこと。効かない薬を飲み続ける必要はない。2週間ずつ、薬を作り替える操作をさせて欲しい。僕は奇跡を起こすことは出来ない。しかし、かつて僕が苦しんだことを、若い方々に味わって欲しくない思いは強い。失われた青春を早く取り返して欲しい。あなた方が味わった苦しみはきっと無駄にはならない、いや、むしろ、これからの人生にとっては宝のような経験になる。その宝物のような経験で他の人を救って欲しい。このトラブルで得た他人への思いやる心こそがあなた方の財産だ。
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