相談 漢方 アトピー 栄町ヤマト薬局

 
 過敏性腸症候群について
 
 近年、過敏性腸症候群の患者数が増加傾向にあります。

過敏性腸症候群とは、ちょっとしたきっかけで下痢や便秘になる。あるいは下痢と便秘が交互に現れる、といった便通状態が異常に長く続き、腹痛をはじめ種々な腹部症状を訴える事が多い病気です。

男性に下痢型が多く、女性に便秘型が多く見られる傾向があります。
また、過敏性腸症候群の原因は、ストレス(情緒的・身体的)や食生活にあるといわれています。

当店では長年に亘り過敏性腸症候群の相談を数多く受けてきました。患者さんの訴える症状は実に様々で、教科書に書いてあるように「便秘型・下痢型・交互型」というように簡単には分けられないのが現実です。
また過敏性腸症候群は現代医学のように「便秘」には「便秘薬」、「下痢」には「下痢止め」という発想では悪化することはあっても絶対に治ることはありません。

過敏性腸症候群の大半は根本的原因にストレスによる自律神経失調があります。この根本原因を踏まえた上で漢方療法を行え、医者が匙を投げたような患者さんであっても驚くほど早く改善します。

当薬局では過敏性腸症候群の相談件数は圧倒的に多く、今日までに累計700人以上は超えるでしょう。過敏性腸症候群(IBS)の患者さんをお世話しながら僕(店主)も色々な事を学びました。

過敏性腸症候群の定義は、どの医学書を見ても同じ事が書いてあり、下痢型・便秘型・交互型等、便宜的に区分されています。原則的な3タイプにとどまっている方を治すのは、そんなに難しくはない。

しかし、僕の経験を積み重ねていくうち患者の殆どの方は便宜的な区分からはみ出した悩みで苦しんでいる事を知りました。下記に述べたような訴えが複雑に絡み合っていて、その1つ1つを解決出来る薬草を見つけてこそ、完治への道が開けるのです。原則的な薬で解決出来るような人は少ないのです。そもそも、その程度の軽症者は僕の所へはやって来ないだろう。僕の所へ来て下さる方は、今までに色々な病院や薬局で相談し治療の限りを尽くし、果ては、法外な高い値段のいかがわしい健康食品にまで手を伸ばして、蟻地獄でもがいている方が最後の砦として訪れる。
既に4割の方が当店の漢方療法で過敏性腸症候群を克服しており、また現在僕と懸命に共同作業をして下さっている方(軽症の方は“漢方エキス剤(粉剤)”、重症の方は“煎じ薬”でお世話しています。


参考までに、今までに過敏性腸症候群の患者さんが訴えてきた症状をご紹介します。もしご自身の症状と当てはまるものがあれば過敏性腸症候群かも知れません。素人判断で市販の便秘薬や下痢止めでその場凌ぎをしているのであれば今すぐ中止し、当薬局へご相談下さい。
 
 
≪今までに訴えてきた症状≫
  • 無意識にガスが漏れている
  • 腹鳴が頻繁にして恥ずかしい。肛門でも鳴る
  • 対人恐怖症になって、外出が出来ない
  • 便秘になって3〜4日出ない
  • お腹が張って苦しい
  • 午前中に何回も(4〜5回)トイレに行く。外出しようとすると便を催す
  • 座っているとガスがボコボコ発生してくる
  • 便意を催すと困るので電車やバスに乗れない
  • えんぴつみたいな細い便しか出ない
  • 肛門に熱感があり不快
  • 残便感があり、何回もトイレに通ってしまう
  • ガスが臭くて人に迷惑をかける
  • ゲップが何回も出て苦しい
  • 午後からお腹がボコボコ動く。夜は悲劇
  • 下痢・便秘を繰り返す
  • 仕事や授業中に後ろの人が気になり、その結果腹痛が起こる
  • 食事の度に便意をもよおし、下痢をする
  • 参観日などのイベントで、必ず下痢をする
  • 必ず狭い部屋や他人とのドライブが苦痛で仕方ない
 


 
     過敏性腸症候群(ガス漏れタイプ)

過敏性腸症候群のうちガス漏れタイプを治すのはかなり難しい。
今までに過敏性腸症候群の漢方療法を行い完治までに至ったケースが4割なのは、ガス型タイプの人が完治率の足を引っ張っている。ただ他所の同業者に言わせれば4割でも異常に高い確率らいしいので一般的に余程難しい対象なのだろう。

薬局をやっていて、薬を出した方の4割にしか「よく効きました、ありがとう」と言ってもらえないとしたらかなり心苦しい。毎日色々な相談の方が来られるが、やはり7割の方に効いてもらわなければ心苦しくてやっておれない。その数字は毎月キープするように努めているし出来ている。だから仕事としてやれるのだ。医者も同じだと思う。いや、医者の場合は僕らよりもっともっと高度な知識や器具、強い薬を駆使できるから、ハードルは高く設定しているかもしれない。  

この半年の間に、過敏性腸症候群のガス型の治癒率が一気に上がった。毎月新しい相談を受けるが、9割くらいの確率で症状を軽減できている。この間、ガス型だけに限れば、100人近く新たに挑戦しているが、10数人だけが漢方を飲むのを止めている。この10数人は1回(2週間分)しか飲んでないので、本来は統計に入れる必要もないのかもしれない。いわゆるドクターショッピングで、色々な医療機関で期待を裏切られ続けたから、持続して治療を受ける気力を無くした人達だ。本人のせいではなく、医療機関の力不足なのだろうが、これから延々と病院をさまよい歩き、商業主義にはめられサプリメントなどと言うものに大切な自分の身体をゆだねるとしたら気の毒だ。  

実は確率が急に上がったのは、僕自身の昨年の思い出すだけでもぞっとする体験のおかげなのだ。それも好ましからぬ出来事のおかげなのだ。  
丁度昨年の今頃、僕は驚異的な労働を強いられていた。勤めていた薬剤師が急に辞めることになり僕が1人で煎じ薬やら漢方エキスの調合作業を午前5時から、午後11時くらいまで毎日作り続ける状態が2ヶ月ほど続いた。特別養護老人ホームの110人分の薬を決まって作らなければならない。それも飲みやすいように錠剤を粉砕したり、一つの袋に数種類の薬を混ぜたりと簡単な作業ではなく、新たに導入した最新の調剤機械を駆使してもなお1日数時間はその為だけに手を取られた。8時から20時までは、いわゆる普通の業務(OTC販売、漢方相談、処方箋調剤)をこなしながらだ。しかし、不思議と疲れは全く感じなかった。四六時中高揚して充実感もあった。よく働いて、毎日ご褒美にビールを飲み、窓を開けて眠った。低体温の僕が、まるでサイボークにでもなったみたいだった。  

そうしているうちに娘が帰ってきてくれた。調剤専門薬局に勤めていた娘は驚くほど調剤に関しては技術を身につけていた。僕の仕事の半分以上を引き受けてくれた。やっと本来の僕の仕事量に戻れた。それでも止めなかった急ごしらえの習慣があった。それは気持ちが高揚したままよく食べよく飲み窓を開けっ放して寝ることだった。10月の半ばまで窓を開けて寝ていた。あまりの寒さで震えながら毎晩目を覚ましていた。寝る前の高揚感だけで開放して寝ていたのだが、本来僕はその様な熱量は身体には備えていない。
 
ある朝目覚めると、抜けるように体がだるかった。仕事をしなければと思ったが、起きあがる気力も出てこなかった。体温を計ると僕にとってはまずまずの熱が出ていた。風邪を引いてしまったんだと思い薬を飲んだ。本来なら半日で解決できる。今までの経験で言うと半日あれば風邪を追い出せた。ところが昼が来ても夜が来ても、最高級の薬を飲んでいるはずなのに症状が全く軽減しない。僕にとっての最大のストレスは仕事を休むことだから、少し焦った。翌日も翌々日も同じように身体が重く、起きあがる気力も起こらなかった。おまけに食欲が全くなく、鼻の先に食事を運んでもらっても、それこそ一口も食べれなかった。体調不良でご飯が食べれないという経験は初めてだった。熱は平熱より1度高いくらいで推移した。微熱、食欲減退、倦怠感、この3重苦で仕事が出来ない。どうしても僕が応対しなければならない人の時だけ2階から降りた。1週間位するとそれでも少しずつ食べれるようになったが、体のだるさと微熱は改善しなかった。全く家から1歩も出ない日々が続き、心は鬱々としていた。しょちゅう体温計で計るが、漢方薬が効いている数時間だけ機械的に熱は下がったが、薬が血液中から消えると又元の木阿弥だった。

息子は最初は何かの感染症だろうと言って興味を示さなかったが、さすがに1ヶ月も微熱が続くとガンかもしれないから、調べにおいでと言ってきた。実は僕もその事ばかりを最後の方は考えていたのだ。倦怠感を押して仕事は続けたが、頭の中にいつもその言葉が浮かぶようになった。毎晩激しい動悸で必ず目が覚めるようになった。激しく汗をかいていた。朝が来るのが待ちどおしかった。体より心の方がやられはじめていた。 息子が勤めているところにいきたくても自分で車を運転する体力はなかった。帰ってきたばかりの娘と妻に全てを任せるのは心許なかった。タクシーで行っても途中で気分が悪くなりぶっ倒れるのではないかと心配した。
そんなときある女性が連れて行ってあげると申し出てくれた。もう20年来漢方薬を出し続けている親しい人で、その人に頼むのは抵抗無かった。結局はある空白の時間を狙って妻が連れて行ってくれたのだが、人の親切がとても嬉しかった。何故か血液検査の数値も良くて、腫瘍マーカーもいっさい問題ないことが分かった。息子に何かクスリを出してと言ったら、こんな時こそ漢方薬と言ってクスリはくれなかった。食事がとれている人に点滴も必要ないと言った。意外と半病人には武器がないものだと驚いたが、病気が隠れていないことを判断してくれて、この日を境に一気に解放へと向かったのだが、問題は残されていた。
 病気でないのなら積極的に外出してやろうと考えた。1ヶ月近く太陽に当たっていないし、歩いてもいない、まして車の運転もしていない。外を歩けば、くらくらとして倒れそうになった。それでも少しずつ時間と距離を伸ばして歩くようにした。漢方の研究会があったので出席してみた。車も運転して岡山まで行った。2時間、好きなことだから意外と体はもって有意義に勉強出来た。喜んで車を運転して帰った。会場から、10分くらい走ったとき、信号で止まった。岡山市では一番大きな交差点だろうが、赤信号を2回から3回も我慢すれば必ず通過できる。いつものように待っていると急に息苦しくなってきた。それと同時にいいようもない焦燥感、何か込み上げてきて叫びたくなるような気持ちに襲われた。冷や汗が出てきて失神しそうになる。何の予兆もなく突然に始まった発作にあわてた。自分でパニックをおこしたのだとすぐに気が付いた。大声で歌い、口をすぼめて息を吐き、窓ガラスを開けた。いつ失神するかと冷や冷やだった。念のためアクセルから足をはなしておいた。やっとの思いで信号を脱出した。するとすぐに高架橋の上で又止まった。一瞬収まっていた症状がすぐに復活した。これが例のパニックなんだと、僕もこんな症状を起こすんだと情けなかったが、失神しないことだけを願って牛歩の歩みの車列を恨んだ。恐らく人生で最大の危機だと、パニックを起こしながらも考えた。やっと危機を脱して再び帰路に就いた。田舎に近づくにしたがって信号も気にならなかったが、バイパスの長い橋にさしかかったところで又同じ症状が出た。たた数十秒も走れば橋を渡り切れるので、先ほどの症状ほど激しくはなかった。  体力が少しずつ回復してきた矢先でこの出来事はショックだった。日曜日、試みに町内を運転したが、信号で止まると動悸がし息切れがした。完全にトラウマとして残ってしまった。

嘗て同じような患者さんを治したことがある。若い彼はダンプの運転手だったが、事故を起こした高架橋の下を通ると必ずえらくなり気を失いそうになると言っていた。全く彼と同じ状態だ。こんなにしんどいのかと、本当に彼の苦しみを理解してクスリを渡していたのかと、罪の意識すら感じた。ただ、彼も、その他の同じような人も治しているから、僕も必ず克服できるものだという予感はあった。この果てしない予期不安を克服しないと日常生活がかなりの制限を受けてしまう。この克服は緊急の課題だった。パニックと予期不安、病名を並べてもしょうがない。要は極度の体力の消耗から始まった一連の神経の衰弱を治せばいいのだ。本来僕がもっている繊細な、臆病な心が覗いただけなのだ。体力を回復し、気を強くする煎じ薬を飲めば絶対克服できると思った。現代医学なら安定剤か抗ウツ薬が定石だろうが、絶対それには手をつけまいと思った。いったん手をつけるとなんだか止めれないような気がするから。
 消化器系を強くする薬とパニックを抑える薬を両方早速飲み始めた。煎じ薬と粉薬で作ったが、美味しいと思った。真っ黒でとても美味しそうには見えないが、とても美味しかった。それの効果は夜の動悸と寝汗にすぐ現れた。飲んだ日から効果を感じて恐らく数日でそれは治ってしまったと記憶している。夜がまず怖くなくなった。日曜日を待って実験を行った。心配した妻が、いつも岡山に行くのを変更して玉野の教会まで付いてきてくれた。往復2時間、ミサが1時間。運転は全部自分がした。橋も信号も全く問題はなかった。ただ、心配な心は顔を持ち上げてくる。信号の度に、橋の度に心配にはなったけれど、症状は起こらなかった。翌週は、1人で同じ行動をとってみた。同じように懸念はその都度あったが、結局何の不都合も起こらなかった。次の週も次の週も行動範囲を拡げながら挑戦し、最終的には漢方薬を飲むのも忘れていた。ほぼ1ヶ月くらい飲んだだろうか。
 
おかげで今は何の問題もなく、どんな渋滞でも問題ない。不運な体験でつかんだ処方だが、その後多くの人に役に立っている。予期不安、パニックなどはそのものの目的なのだから効くのは当然なのだが、一番幸運だったのは、過敏性腸症候群のガス漏れタイプの人がかなりの確率で改善していることだ。
あれ以来、「繊細病」「考えすぎ病」にはこの処方を使っている。僕にはそれらで苦しんでいる人達の性格や心のありよう、果ては生き方まで手に取るように分かる。僕が僕の性格を好きなように、その人達がとても好きだ。その繊細さを失わず、とても大切な個性として持ち続けて欲しいと思う。その上で、気を強くもてるような煎じ薬で物事に動じないようにしてあげると「ガス漏れ」から解放されることに気が付いた。現代医学の逆だ。思考力を抑えてなんとか日常生活を送れるようにするのではなく、強い気持ちを持ってもらえるようにするのだ。そして、そこに笑いの一つでもあれば十分だ。治らないはずがない。だって、人を傷つけることもなく懸命に生きているんだもの。祝福されないはずがない。勇敢で攻撃的がいいはずがない。僕はそんな人間でなかったことを喜んでいる。それだからこそ今会えた人達がいることに感謝している。小心でも臆病でもない、僕らは繊細なだけなんだ。それ以上何を望む。繊細だからこそ得たものがいっぱいあるはずだ。それを大切にすれば十分だ。繊細だから失ったものはなにだ。そんなもの必ず取りかえせれる。だって、自分の心の中にあるのだから手は延ばせば届く。  何故こんな体験をよりによってさせられるのかと当時思ったが、これで若者の何人かが救われるなら当時のつらさは全部肯定できる。みんな似たり寄ったりと見えないだろうか。特別な人なんてそんなにいないのだ。良しにつけ悪しきにつけ。この年になってやっとそれが分かってきた。それが分かれば生きるってことは実は結構楽なものなのだ。早く気が付くことを祈っている。




過敏性腸症候群のあなたに

 僕の青春は、その一瞬で変わった。
高校2年生の新学期、古文の時間、教師に指名されて教科書を読み始めた時だった。訳もなく声が震えて止まらないのだ。恐らく手も震えていたに違いない。果たして、何行を読んだのか分からないが、その1〜2分は、僕にはたどり着けない無限の彼方のように思えた。全くの1人相撲なのだ。青春前期の自意識過剰の典型だ。(ショ−ウインドウに映る自分の姿にうっとりするのと同次元のこと)巡り合わせの悪いことに、陰険な教師にそのことを指摘され、以来僕は、教室で本が読めなくなり、英語や国語はもとより、社会ですら、自分が当たると予想が付けば、授業を休んだ。

 人前で本を読む事は、大学へ行っても出来なかった。僕は元々は田舎の優等生で、弁論大会なども平気だった。むしろ目立ちたがり屋だった。それが、あの一瞬がトラウマになり、逃げて逃げて逃げぬく人生が始まった。
 このまま僕は、一生逃げ回って生きるのか。いや、そんな人生は耐えられない・・・そんな日々の葛藤に終止符を付けようと僕はあることを決心した。それは人前で唄を歌ってみるという事だった。

当時、時代はベトナム戦争の頃で、学生はデモによく出掛けた。そして、色々な所で反戦フォーク集会が催されていた。僕にとっては一生を変えてやろうという程の決断だ。ギターも習いたてなのに、詩を書き曲を付けて応募した。コンサ−ト当日の昼食は、全く喉を通らなかった。そんな事も初めての経験だった。緊張すると全ての器官が収縮する。今なら一歩退いて分析出来る。僕は極度の緊張の中で舞台に立った。心臓は破れる位激しく打ち、足は震えた。人の前で本も読めない人間が唄を歌うのだ。それも、ギター1本で・・・。
ところが、とんでもない事が起こった。初めて作ったオリジナル曲を、「21年生きてきて、これが・・・」と、歌い始めた瞬間、完全に僕は自分の作品の中に入り込んだのだ。もう周りには何も存在しなかった。完全な静寂の中に僕の声がギタ−の伴奏にのって響いた。僕は、譜面を見ることもなくほとんど目をつむったまま歌い終えた。そして数曲を無事歌い切り喝采の内に舞台を降りた。多分、5〜600人の聴衆を前にしての出来事だったと思う。

 とてつもない賭に僕は勝った。以来、5年間僕は、学生歌手として、その街では少し名が売れた。今でも僕は、人前で本を読んだり、歌ったり、話したりするのが苦手だ。でも、どれも避けては通らない。講演も頼まれれば、断らない。

 その時以来僕を支えている価値観は、「みんな一緒」って単純なものだ。人前で何かしようとすれば、緊張するのが当たり前。上がらない方がおかしいので、そんな人を基準にするより、上がる普通の人を基準に考える事にした。人に少し勝とうが、人より少し劣ろうが、そんな事にこだわる程、人生は長く無いことが分かった。僕は、僕である事を大切にし、不格好に生きていけばいいのではないかと思っている。背伸びしない人生が、いかに生き易いか身をもって体験した。

 今ならハッキリ断言出来る。この世に命を懸けて守るようなものは、自分の子供以外にはない。あなたが守ろうとしている事は、我が子の命より価値がありますか?ないのなら、そんなに力む事はない。人生なんて、所詮ダラダラと続いている冗談みたいなものなのだから。

  僕は、人口8000人足らずの小さな町で薬局をやっている。訳あって、この町に帰ってきたけれど、大学で学んだことはいっさい役に立たず、悶々と暮らしていた。だけど、白衣を着て応対するから、お客さんは僕に期待をする。僕はそれに答えてあげる知識がない。そのうち、だんだん息苦しくなって喉にいつも何かが引っかかっているような症状が出た。半年たっても解決せずに、病院に駆け込んだけれど、風邪薬をくれただけだった。その後恐らく1年くらい経ってからだと思うけれど、あるメ−カ−の勉強会で講師の方に、僕の症状を尋ねたら、ある漢方薬を教えてくれた。家に帰って、漢方薬を初めて仕入れて自分で飲んでみると、なんと、1年半ぶりに、喉のつまりが取れたのだ。その時の衝撃で僕は漢方を勉強し始めた。以来、この田舎の方の忍耐強い愛情で、僕は漢方の腕を鍛えられた。顔見知りの人々には嘘は付けない。薬を出しては、結果を尋ねる。その毎日の繰り返しでやっと少しだけ漢方薬が使えるようになった。田舎の薬局は、効かない薬を出すわけにはいかないのだ。しばしば顔を合わせるのだからそんなことをしたら謝りどうしだ。治癒率7割、それが僕の目標だ。10人に薬を作れば、せめて7人に喜んでもらえる、そうしないと精神がもたないのだ。

縁あって、インタ−ネットで薬を作らせていただく方々にも、ぜひその7割の方に入って欲しい。その為には、僕に一杯情報を下さい。そうすれば症状にあった薬が作れる。そして一番大切なことは、僕より先に諦めないこと。効かない薬を飲み続ける必要はない。2週間ずつ、薬を作り替える操作をさせて欲しい。僕は奇跡を起こすことは出来ない。しかし、かつて僕が苦しんだことを、若い方々に味わって欲しくない思いは強い。失われた青春を早く取り返して欲しい。あなた方が味わった苦しみはきっと無駄にはならない、いや、むしろ、これからの人生にとっては宝のような経験になる。その宝物のような経験で他の人を救って欲しい。このトラブルで得た他人への思いやる心こそがあなた方の財産だ。