普通の薬局で在り続けるために(6)

(岡山県薬剤師会会報148 号掲載)

黒い星

大和 彰夫

幼い頃、海水を掬おうとすれば、藻がへばり付いた目の粗い石段を、バランスを取りながら幾つも降りなければならなかった。半世紀近く経た現在、月を映すことすら拒絶した夜の海は、鳴りをひそめ獲物の隙を狙って肥大する。高度成長により漁港の原風景は石段と共に奪われ、コンクリートの波止場になった。海底が見えなくなった分、そこに生命が溢れていることを忘れ、昭和は海を巨大な浄化槽にしてしまった。コンクリートに腹這いになり、両手を伸ばせば容易に海を掴める。やがてこの陸も海に呑込まれる。限りない生産が限りない破壊をもたらす。得ようとすればする程失う。蟻地獄の中で、戯れに砂利船が霧笛を鳴らす。やがて今日は醸造されて記憶の中で昨日になる。

「こんにちは、高山の仲神です」
曾て一日中、その声に包まれていた僕が気付かない筈がない。調剤室にいた僕に取り次いでくれた薬剤師の声は、僕に呼吸を整えさせる間でしかなかった。扉を開けた僕に彼は右手を差し出した。その自然なポーズに、心の拠り所を失った多くの若者が吸引された。差し詰め僕は、その第一号で、後に何人、いや何十人続いているのか分からない。
「お久し振り」
「本当に、久し振り」
十数年の歳月は瞬き一つの間に飛び越えられる。時は気紛れ。想念で操ることも出来るし、又、想念に弄ばれもする。口髭に白いものが混ざり、少し痩せて、皮膚は艶を失ってはいるが、握手する手は以前にも増して温かく、眼差しは盆地に注ぐ陽光のように穏やかだった。
「パシヤ、パシヤ」
彼は薬局の中を歩き回り、両手の親指と人差指で作った四角形をカメラに見立てて口でシャッターを切る。
「仲神さん、どうしたの。薬局に興味あるの?」
凡そ薬剤師と言う肩書きが、似合わないことで彼の右に出る人を今だ曾て知らない。御多分にもれず医学部失敗組の彼に有機化学を学ぶ理由は見当たらなかった。気の毒なくらい化学が苦手な彼は、1年僕の先輩だったが途中で何故か同級生になった。最終的には先輩として大学を出て行ったが、何故彼が卒業出来たのか今以て判らない。僕にはそんな先輩が何人もいて、彼等の影響が僕の所で止まればよかったが、不幸にも同じ道を歩んだ後輩が続出した。
「俺、薬局で働いているんだよ」
「えっ、ハッハッハッ・・・」
抱腹絶倒する僕に真顔で続ける。
「おかしいか?四店舗ある薬局だぜ」
「凄くおかしいですよ、少しはOTCのこと判るの?」
「全然判らん。風邪薬なんか買いに来たら、薬なんか飲まずに横になって肝臓を休めとったらと言ってしまいそうだよ」
「そんなこと言ったら店主が怒るでしょう」
「言いたくなるだけで言わないよ、適当に売っているよ」
「気楽でいいですね。難しい病気の人も時には来るでしょう」
「そんな時は、奥さんに尋ねる」
「奥さんは薬剤師なの?」
「いや、違うんじゃないの。でもよく知ってるよ」
「処方箋はどうなの?」
「たまに来る。来たら俺が作る」
「良かったですね。そこだけは信頼されているんだ」

卒業して直ぐに高山の公立病院に就職した彼にとって調剤は唯一、薬剤師を発揮できる分野なのだ。岐阜から高山へは、とても同じ県内とは思えない位距離があり、工面した電車賃以上に遠く感じたが、彼を慕って何度も足を運んだ。集落にも見離されたような行き止まりにある、木が腐った臭いのする小屋に彼は住んでいた。北の町の冬は空から一夜にして降ってきて、山も畑も家も、人の心まで凍らせてしまう。一枚の毛布があったのか、煤を吐く石油ストーブがあったのか、ホーム火燵の赤外線に救われたのか、語り明かした朝、背中を丸めて出て行く彼を見送り、社会人とは斯くも窮屈なものかと椰楡しながらも、いずれ後を追う自分の姿を重ねて鉛色の空を見上げていた。

一年遅れて卒業した僕は、成り行きで故郷に帰り父の薬局を手伝った。自分は何をしたいのか、何が出来るのか一向に判らなかった。店頭に立っていても役に立たないから抜け出してはバイクに跨がり、峠を一つ越えて砂浜へ通った。乱反射する海面に角膜を焼かれながら、水平線に眠る島を眺めていた。元々、志は高くなかった。何か特別の能力を持っているとは思わなかった。一応何でもこなせて何も突出したものがない。どこにでもいる人間だった。何かを窮める欲求もなく、怠惰にその日その日を下垂した胃袋に納めていた。

そんなある日、仲神から電話をもらった。高山で友部正人のコンサートを企画したから前座で歌わないかとのことだった。当時、最も敬愛していた歌手の前座を勤めるなんて夢のようだったし、逆に恐ろしかったが、悶々とした日常を打破しなければという思いが二つ返事をさせた。
青春の幻影にしがみついて居場所を求めて彷徨する僕の魂に墓標を立てる為に僕はマイクの前に立った。小さな寺が会場の雪見酒コンサートでは、金色の仏像が揺れる蝋燭の灯で慈悲の涙を流した。僕は震える声で僕自身に向かって歌った。
雲間から満月が覗いて町並を照らし出すと小枝に載っていた綿が躊躇いながら落ちる。雪景色の高山の町は、道も空気も凍っていてコンサートを終えた僕らは商店街を急いで通り抜け、打ち上げの為に地酒屋という大衆酒場へ連れていって貰った。寺で一緒に歌った、友部さんや吹笛君と地酒を飲んだ。カメラマンの前田さんは酒で顔を赤くして一つの夜をフィルムに刻んでいた。たわいない喋りに飽きた頃、吹笛君が友部さんと歌について話し出した。若い吹笛君は感情の趣くまま歌っていた。友部さんは言霊をメロディーに載せて歌っていた。だから吹笛君は友部さんの身体から跳ね返る言葉を一つずつ拾い集めていた。僕も歌についての考えは持っていたけれど、二人の話の中には入ってはいけなかった。歌を生業にしている人、しようとしている人の琴線に触れるには余りにも拙劣な僕がいた。二人と一緒に歌うのではなかったと思った。いい歌があった、いい人がいた。高山に来てよかったと思った。寂しがり屋の女の子が友部さんに話し掛ける。一つ一つの出来事が、まるで唄のようだった。午前一時発の夜行列車で僕は一人高山を離れた。皆と別れた寂しさはなかった。スキー客で一杯の夜汽車は嫌だった。高山に来て良かったと思った。僕は冷いデッキに犬のように蹲って眠った。夜汽車は引き返せないレールの上を走った。青春の残渣は宮川の欄干から全部鯉にくれてやった。高山に忘れものはない。意識して置いてきた昨日までの自分が抜けた心は、重力から解放されたかのように軽くなった。僕は、その時以来自分が生きるのは瀬戸内海に面したこの田舎であり、生かされるのもこの町だと思えるようになった。僕はその後、岡山でも歌うのを止めた。

「コーヒーでも飲む?」
テーブルを挟んで向かい合う。
「そんなもの昼から飲むの?これでいいよ」
コップを口許に運ぶ真似をし暗にビールを要求し茶目っぽく笑う。
「昼間から店先でいいんですか?」
「いいよ、十数年振りの再会なんだから」
呆れ顔で薬剤師が自動販売機へ走ってくれる。
「金が無いから高速でなく、下を走って来た」
「金が無い?」
何と懐かしい素敵な言葉なのだろう。僕の仲間の殆どは親の期待を裏切っていたから仕送りは無かった。誰も金を持っていなかった。その御陰で色々な事を考え、経験した。頭と身体は只だから酷使した。その頃の体験こそが今の自分を支えている。あの数年間が無ければ僕など存在の意味すら無い。

何故か幼い頃から強いものに憧れたことがない。野球でも相撲でも常勝のチームや力士が嫌いだった。悲哀を滲ませて去るものに心を惹かれた。反り返っている人よりもうなだれている人に、笑っている人よりも泪を堪えている人に、ぬくぬくとしたコートを羽織っている人よりも橋の下で眠る人に、雄弁な人よりも口べたな人に、金持よりも貧乏人に、怒る人よりも罵られる人に、使う人よりも使われる人に、愛される人よりも愛する人に親しみを覚えた。有難いことに田舎の薬局を尋ねて来てくれる人は、そんな人ばかりなのだ。外観も内装も荒れ放題で店主(僕)はそれに輪をかけたぐらい見窄らしくて、屋根にTシャッを干し、柱にジーパンを巻き、床には草履を穿かせて仕事をする。薬剤性鼻炎でくしゃみする白衣が無ければとても薬剤師には見て貰えないだろう。しかし、このスタイルを変える積もりはない。動き易いという機能面もあるが、僕の薬局を利用してくれる人達も又、心の奥底まで普段着で、金持ちとか知識人とかはとても縁遠く、なけなしの金を握って来る人もいれば、パチンコで勝った時だけ来る人もいる。誰も彼もこの町では至って普通なのだ。

「医者に行けばいいんだけれど……」「どうせ効かないだろうけれど……」「口ばかりだろうけれど……」「どうせ見ても判らないだろうけれど……」「漢方薬はいらないから・・」などと色々な照れ隠しの接頭辞をつけてやって来る。何で僕の所を態々選んでやって来るのか知らないが、何処へ行っても払った金額分しか相手にしてもらえない人達が来る。優秀な人間はどうしても活躍の場を求めて都会に出る。僕を含めて普通の人間が町に残る。研ぎ澄まされた緊張感は町には無く、穏やかに空気が海から山に移動する。仲神はその柔らかい風にひょいと飛び乗ってやって来た。
「ちょっと紙コップ貸してくれる。持って来るのを忘れた」
「遠慮しないで。紙コップなんかじゃなく、ガラスのを持って来ますよ」
「いいよ、おしっこを飲むんだから」
「えっ?」
事も無げに言う彼の言葉に一瞬耳を疑った。
「おしっこを飲むの?」
「そう」
念を押しても彼は平然としている。
「あの、おしっこ健康法ってやつ?」
「調子いいよ、お前もやってみたら。普通は起きぬけのを飲むんだけど、今日は車の中で寝たりしたもんだから」
「美味しいの?」
「美味しくはないけど、慣れればなんともないよ」
「これ、目にも注すんだぜ。指に付けて一滴落とすんだよ、新聞記者をやってた頃、光彩炎になったんだけれど、おしっこで治したんだよ。自前のステロイドだよ」
唯々、驚くばかりだ。その種の健康法があることは耳にしていたが、まさか実践者に、それもこんな形で遭遇しようとは思ってもみなかった。元々彼が自然派志向なのは良く知っている。人の創り出したものに懐疑的だった。ポケットの中にはいつも、行き先のない切符を入れていた。
「実は俺、昨日留置場から出て来たばかりなんだ。留置場でも毎日飲んでいたんだ。御陰で体調を崩すこともなかったし、頭も良く働いたよ。色々なことを考えて……お前のことも久し振りに気になって……もう一度会っておこうと思って。でも来て良かった。本当に!」
「何で逮捕されたの?」
「…・・」
「まあいいや、仲神さんのことだから大体は想像つくよ」
無鉄砲と臆病が絡み合った僕らの青春は、脆くも空中分解し残骸は四方に飛び散った。僕は西へ、仲神は北へ、ある者は東へと。各々があの数年を経て又、各々になる為に。
ビールを一缶空ける度に仲神は握り潰し、テーブルの上に並べる。その数と顔の赤さが比例する。
「少し酔ったかな」
仲神は窮屈そうな襟元のボタンを一つ外した。開放された喉の回りに数センチの幅で黒紫色の帯が覗いた。
「仲神さん、首が紫ですよ、どうしたの?」
僕は自分の喉の辺りを人差し指で示しながら尋ねた。
「あっ、これ、ちよっと……」
仲神は珍しく言葉を濁した。
「湿疹?」
「……」
「湿疹だったらステロイドで治したら?一つ持って帰ります?」 「うん、いいよ、おしっこで治す……うん、お前はいい仕事をしている、安心したよ…・・ちょっと町を歩いて来る」
仲神は、入って来た時と同じように両手でカメラを作り、僕に向かってパシャパシャとシャッターを切る音を真似ながら後退りして出て行った。
僕は仲神が出て行った後、日常に戻る。「いい仕事をしている」と彼は言ってくれた。何を以て良い仕事と感じたのか分からない。
僕は自分の好みに合わない薬は扱わないし、無理をして客に薬を売りつけることもしない。だから、僕にも客にも心地好い空間が店なのだ。無邪気なお喋りをし、客が笑って僕も笑う。金が無い人は千円で治し、金がある人は一万円で治す。店頭に立ち始めた頃、健康までも金で買える不公平さに悩んだが、今は僕なりに解決している。一万円で治すのだったら誰でも出来るが、千円で治すには懸命な知恵を絞らなければならない。そう努力することで許されているものと僕は勝手に思っている。福沢諭吉に媚びず、夏目漱石も大切にする。誰も特別視しない、誰も蔑視しない。仲神は、僕の薬局での応待を横から見ていて、そのことを「いい仕事」と言ってくれたのかもしれない。

救急車がけたたましくサイレンを鳴らし走り去る、と突然、その音が鋭利な刃物で切断された。音が消えたのは恐らく波止場の辺りだ。何故か知らないが急に胸騒ぎがした。僕は白衣を脱ぎ捨てるとタイヤの空気が抜けた自転車に跨がり、アスファルトを噛みながら波止場に急いだ。何かを囲むように人だかりが桟橋でしている。僕は自転車を放り出して走る。「まさか」と「きっと」が頭の中で交錯する。救急車の回転灯が辺りの音を消す。静寂の中で仲神が、ちょいと一眠りしているような顔で横たわっている。衣服が重たく身体に密着し、滲み出た水がコンクリートの上をゆっくりと這う。
「仲神さん!仲神さん!」
その時、朱に染まった巨大な太陽が岬の向こうに引き摺り込まれた。

その夜、僕は封印していたギターケースを開けた。そこには緑青で覆われたあの時代が潜んでいて、一つ唄う度に硬直した弦が悲鳴を上げて切れる。残り2本になった時、僕は歌うのを止めた。
僕は海の胸倉を掴む。海は顔を背ける。突然人の気配がして振り返ると、闇のカーテンの隙間から一人、又一人と死に装束の老若男女が小旗を振りながら現れては、仲神の涙で満ちた海に入っていく。その夜、仲神が黒い星になった。
想いのページ